常設コーナー[1] vol.02
『現代詩手帖』(思潮社、1974)の評論
思潮社の『現代詩手帖・第17巻第3号 特集:六〇年代詩人のありか』(1974年3月号)に掲載された寺山修司論は、もともと全集の解説として寄稿されました。
「詩訕修詞学」――一見何のことかよくわからないこのタイトルは、姓名を構成する各字に“ごんべん”を足すと“Poem(<詩>と<詞>)”がふたつも存在する、<寺山修司>という名の奇妙な偶然に気づいた竹永による造語です。
文中でも触れていますが、三島由紀夫の割腹は当時の竹永の心境とその後のスタンスに大きく作用したようです。
若いときの文章ということで、本人はとても恥ずかしがっていますが無理やり掲載します(笑)。
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詩訕修詞学(註:“修”には“ごんべん”が付く)
ぼくは三十五歳の若さで、一つの驚くべき啓示を経験した人間である――つまり、失敗者であるよりも成功者であるほうが良いということだ。ものごとの本質に関わるこの大事実がわかってみると、ここから引きだされる一連の理解に、ぼくの精神はそのときはじめて開かれたのだった。そしてその一つ一つが、<原啓示>そのものに劣らず目の眩むような衝撃を与えるものであった。金というものは、ぼくはいまわかったのだが(もちろん、以前にわかったものはひとりもない)、大事なものなのである。貧乏であるよりは金持ちであったほうがいい。力とは、ぼくはいまわかったのだが(より 高次 の微妙な点に迫るほどに)、持つのが望ましいものなのだ。他から命令されるよりは自分が命令したほうがいい。名声なるものは、ぼくはいまわかったのだが(臆せずに言うとは、ぼくはなんと勇気のあることか)、無条件に甘美なものだ。無名であるより世に認められたほうがいいのである。
――N・ポドレーツ「MAKING IT」
ことばの国へ
二十歳を過ぎて、自分はひょっとしたら天才ではないかしらん、などと思い始める天才などいはしない。何もかも、全ては二十歳以前 に片着いているのだ。彼は自分が何をせねばならないか思い患ったりしない。彼は自分が何をするのか、そう思う遠の昔に知っている。要請の声はそれ程断定的ではないが、彼はそれを思い違えたりしない。ただ彼は少年の狡智さで、その声を今一度自らの口でなぞってみるのだ、「ひょっとして、僕は天才なのじゃあないかしらん」と。必要なのは覚悟だけだ、そうだ、それはずっと以前に着けられた決着に対する確信、天才としての覚悟だ。着けられた決着に誰もとやかく言う筋はなかろう、自分が着けられなかった決着を楯に挑んでみても、勝負もまた遠の昔に決着済みなのだ。誰かが彼にケリをつけさせたか? 誰がケリを着けさせたかなんて知っちゃあいない、誰でもいいのだ。
寺山修司もまた、こうして十代で世界にケリをつけて人生を始めてしまった者も一人である。彼は後に、同じく十代で世界の謎を知ってしまった「詩は次から次へといくらでもできるように思」った少年との対談で、「僕は言葉にすれば何でも手に入れられると思っていました」というのである。或る日、何の予兆もなしに、世界の何もかもが既知のことのように想え、同時にそれは何ひとつ判然としないと想うこと、世界の謎を垣間見たが故に、世界から閉め出しを喰うという矛盾。少年は「ことばの国」の入り口に立つのである。小学の時に萬葉集の暗記を企て、中学で俳句や短歌をいじりまわす少年を想起せよ。「言葉にすれば何でも手に入れられる」と思い込み、「世界、それは言葉だ」とケリを着けてしまうこと、これこそ力だ。「判ってしまえばそれまでよ、判らないうちが花なのよ」は「判ってしまえば花なのよ、判らないうちはそれまでよ」の、どちらにしても花物語、それら二つながらから少年は始めてしまったのだが、ともあれ少年のよみは間違っていなかった。
彼はまず、全知でありながら同時に未知の世界を、自分の現実世界(アオモリ)に照応する五・七・五という最小の文章表現型式の中に、用心深く、丹念に再現しはじめる。俳句はまるで次から次へといくらでもできるように思われ、彼は書体を変え、名前を変えて地方紙に投稿する。書体を変え、名前を変えた十首ばかりの句は、それらが同一人物の手になるものとはつゆ知らない撰者によって、一同に紙面に並ぶ。少年は世界を拡大する。同時に文字は十四文字増えて三十一字になる。十四文字の世界の拡大、たった十四文字の果てしない荒野! 彼は今度は、十四文字分拡大した世界に、知っていて知らない世界の再現を諜む。彼は想う、「どうして世界は僕の手にかかると、五・七・五でも五・七・五・七・七でも、死んだり枯渇したり、凍りついたりしないのだろう? 世界は僕の世界によって制限を受け、限定されるのに、僕にかかると、制限を受ければ受けるほど、限定されればされるほど、より世界らしくなるじゃあないか。ひょっとしたら僕は『生きたままの蝶』採集家、ことばの錬金術師、あるいはまた世界の謎とき師! 答? それは無論ぼくの言葉だ! 全知かつ未知なるもの、世界、それは僕だ!」
いったい誰が、こんな面白いパズルをそう簡単に止めたりなんかできるだろう? 少年は長い間この謎ときに熱中する、最早自分が三十一文字に収まりきらなくなるまで。
いったん自分が三十一字に収まりきらなくなると識ると、彼はあっさりこれに「長い別れ(ロング・グッドバイ)」を告げる。檻を出、砦を撃って出るといたるところが戦場だった。守るべき陣地などなく国境もない戦い、どこもが主戦場だった。彼は既に定型で自らを守る少年ではなくなっていた。「遊撃とその誇り」の戦士、彼は進む、「街に戦場あり」だ。
俳句→短歌→詩→(ラジオ・TVドラマ)→長篇詩→(映画シナリオ)→散文詩→歌詞→(小説)→評論→戯曲→演劇→……これら対世界争奪の段階的闘争の軌跡! 彼の現時点での最終段階的闘争が演劇であるなら、戯曲集はその前段階闘争の総括と綱領であるだろう。作品はいつも作家の結果であることを人は銘記しておかねばならない。総括好きはいつも二重の誤ちを犯すのだ。
寺山修司の戯曲をⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳと辿って来た者は、六九年暮の「ガリガリ博士の犯罪」に、既に寺山修司のことばが劇場では収まりがつかなくなって来たことを知るだろう。
実際公演では「ことば」は幕切れでけたたましく笑いながら劇場を駆け出して行ったのだった。言葉は寺山に、最早、劇場では狭すぎる、どこへでも連れ出してくれ、と催促し、七〇年秋、寺山は言葉と連れだって、「人力飛行機ソロモン」の飛び立つ彼方に、「ことばの国」の幻視を企てたのだ。だから寺山修司にとって市街劇は反劇場とか街の中の見世物などでは更々なく、彼の言語が、劇場という器では小さすぎて最早収まりきらなくなった、またしてもその結果だったのである。
「言葉よ、私と、もっと遠くへ行こう!」という訳だ。
“現実らしさ”のテクニック
一九七〇年秋、「人力飛行機ソロモン・東京」の楽日翌日、正午を少し回った頃、私は一通の電話で「宴のあと」の午睡を破られた。電話は寺山さんからで、「三島さんが腹を切ったよ……」という極めて無性格な第一声から、延々二時間半に及んだ。私はこの「現実ばなれ」を電話で聞きながら、電話線の向こうの受話器で、たぶん書きかけのB5判の原稿用紙の上に、四、五本の2Bの鉛筆を放り出して話しているだろう「現実らしさ」ばかりを想像していた。「言葉よ、私はもっと遠くへ行く!」と、この「詩は次から次へといくらでもできるように思えた」少年の方は逝ってしまったのだが、それでも「現実らしさ」は「現実ばなれ」するわけにはいかないのだった。
現実はいつでも超えられねばならなかった。その超えられるもの、それこそを現実と呼ぼう。だから現実はいつも面白かったし、いつもつまらなかった。寺山修司は休むことなく、この「何か一つ足りないもの、即ち何か一つつけ加え得るもの」に一点つけ加えてはこれを超え、獲得していった。「現実らしさ」は「現実」に一点つけ加えるだけで事足りるのに、他人(ひと)はどうして至難そうに言うのか、「現実」に「私」が一点賦与されているということ、それでも「現実らしさ」を獲得するになお不充分だろうか? 「現実」――この永久に変わることを望みながら、そのくせ頑迷な保守主義者、不遜で欲求不満な自然の体系――にとびきり上等の異物を叩き込んでやらねばならぬ。それは終にこの自然の体系と和解することなく、同時にこの組み込まれた異物による体系を獲得せねばならない。そうだ、癌のように、胆石のように、装填された一発の弾丸のようにだ。あるいは義眼、義歯、義手、義足のようにだ。癌細胞による細胞の体系化、胆石による肉体の想像、義眼で見る世界の体系化、義歯による世界の咀嚼! 義手による世界の膚触り、義足による世界の測量! だからラスコリーニコフの斧は脳天めがけて振り下ろされたのだったし、聖バレンタイン・デーに機関銃(マシンガン)が入用だった、船長エイハブの片足は義足でなければならなかったし、ナチはヨーロッパ待望のリアリティの出現なのだった。多分、言葉は世界最初の異物だったのだ。初めに言葉ありき、天才は誰であれ決して間違わなかった。だから天才の言葉は全て信じなければならないし、悉く信じてはならなかった。寺山修司は書く、十一本目の指について、二本目のペニスについて、二つめの国家について!
だから、ひとたび寺山のこの現実らしさ獲得の天賦を、「天井桟敷」という社会学的、組織学的集団にまで射程距離を卑近につづめれば、寺山が「何かひとつ足りない=充たされない=不満な」者の代弁者に、家長になるのは必然だった。名もなく貧しく汚なく、誇るにたる職とてなく、家は生前に既に無く、親にはその彼らの目前ではぐれてしまった者たち、中退でこそあれ学生でなく、希望は悉く挫かれた灰の革命家、それら「現実」こそ「われわれ」だったのである。われら現実は寺山修司によって埋められる一点によって「現実らしさ」が獲得されたようにも見える夢を夢見たのだったし、寺山修司その人こそが「現実らしさ」そのものだったのである。だから寺山修司は「現実」に一点を賦与すること、つまり自分を賦与することで「現実らしさ」を獲得し、他方われわれは一点を賦与されることで「現実らしさ」を獲得したのだった。まさに一点のキャッチボールだったわけである。だが双方とも、多少の「現実らしさ」は獲得されながら、問題は少しも解決されたわけではなかった。それはまさしく物、キャッチボールとしての一点、即ち、物としての言語、言語としての物に関するものであった。つまり、寺山修司とわれわれの間には、われわれが寺山の教唆を習得すればする程必然的に、「言語の階級闘争、あるいは言語の世代闘争」とでもいうべき壁にぶつかるようになっているのだった。だから寺山門下は新旧を問わず、卒業者であろうと中退者であろうと、優等生であろうと劣等性であろうと、自分の言語の奪回、即ち、私の奪回、私の「現実らしさ」の奪回に挑まねばならなかったのだ。こうして寺山門下は、優等生であればあるだけ寺山に近似値でるというアイロニーを孕みながら、伝授され、盗み奪った種々のフォームや変化球で、新たなキャッチボールの一点を投げはじめるのだった。だがこれこそ、ひとり寺山修司とその門下についての問題ではなく、自立小僧の長い旅路、あなたの、あなたの、あなたの、あなたの、百万人の問題であり、われら戦後のニッポン問題の核心でもあるのだ。
メイド・イン・NIPPON
寺山の母がバーの女給(おんな)であったということは彼の思想史を語るうえで欠かすことのできない重大事であり、象徴的なことであるように想われる。何故なら、戦後、殊に今日顕在化した「家の問題」は酌婦、所詮水商売の女に始まると私は考えているからである。高校の頃、私は恋人の家を訪ねる度に、同じ想いをしたことを思い出す。バーのマダムであり地元のヤクザの親分の女(いろ)である彼女の母と、彼女の、母ひとり娘ひとりの彼女のアパートには(アパートに棲んでいるということ自体驚嘆に値した)、悲しい父が必死に家父長制にしがみついていた私の家には決してない、何か新しい「家」の匂いがした。寺山は母親について言い及ぶ時、故意にか事実そう把えているのか、母親を日本の「母」像の原像に近づけて言及してきたが、寺山はその近代「母親」像の中に、彼の最初に発見した「他人」がお袋であったという、苦い遺産を隠し続けてきたように想われる。寺山修司が言い続け、勤め続けてきた自立への比喩である「家出のすすめ」も「母親殺し」も、決して「現代の姥捨」ではなかった。家出をされたのは私の方だったのである。戦後は「親が子を捨てる」ことから実は始まったのだ。今となっては誰もがそのことに思いあたるだろう。「母」が突然「女」になった日「私は神でなく人間なのです」と口を割ってしまった嘗て家父長制の体系の長の傍に、腰に手を当てて立つサングラスにパイプ煙草のあの男D・マッカーサーを発見した、まさにその時に母の不倫は始まったのだ。
この威丈高なヤンキーは、彼女らにとって(正確には全ての生き残り共にとって)、「私は父ではあっても実は父ではないのです」と言ってしまった男に比して、どの点からみても優れているように思われた。彼女らのこの直截な判断は違わなかった。子宮の思考に思い違いなどあった例はなかった。彼女らはその温かい肉の内で意を固める、父は決して帰って来ぬこと、よし帰ってきても、それは父ではあっても実は父ではないこと!……既に「家」は終焉したのかもしれない……???。母に先を越された私はどうするか? ここまで来て、父でも母でもない私は初めて「家の思想」に直面するのだった。男は誰も、いつであれ、女が去った後で、その訳を知るのだった。人生のスタートは苦く、ふらふらだが、しかし始めねばなるまい。
「家出のすすめ」は、「母親殺し」は「このうえ私にまだ残れと言うのか!?」、「それでも君はまだ残ると言うのか!?」ということであったと思われる。父は帰らない、父ではないと遠に逃げていた、母もまた逃げた。誰もが逃げをきめこむ時代なのだとしたら、もうこれ以上は発ち遅れる訳にはいかない、俺は俺はこの時代の一番遠い所まで逃げてやる、今すぐに、俺は置き去りにされた俺から逃亡してゆくのだ。走りながらの自己確証! これこそお袋が駆け落ちを決めこんだ、あのサングラスとパイプ煙草の男のお家芸だった。汽車が汽笛を鳴らして走るように、俺は自分で子守唄を歌いながら走る、決して止まらぬ機関車だ。そう、彼もまた自分で自分の子守唄を唄いながら走る、時代の大列車強盗になるしかなかったのだ。
後に、寺山門下の優等生である東由多加が提唱する「兄弟捜し」は、寺山の「家出のすすめ」が当然辿るべき思想を、父になれない宙ぶらりんの兄の峻巡に目をつけて、弟が先取りしたものだ。思えば、父も母もいない我々の戦後に残された「家」なるものは、ただただ兄と弟によって構成されていたのであり、戦後史はまさに兄弟の歴史でもあったのである。それは岸兄弟の、大江兄弟の、石原兄弟の、加藤兄弟の兄弟史であり、高倉健と池部良の親の血を引く兄弟よりも硬い契りの男色関係から、同じ穴のマラ兄弟まで及ぶものである。とはいうものの、兄弟であるということの発見、あの根源的な宿命だけが欠落していた訳ではない。先に生まれた兄は兄としての宿命を弟殺しを目論まねばならなかったし、遅れて来た弟は兄に多くを学びながらも、兄の斧の一撃から逃れるために絶えず兄を牽制しておかねばならなかった。しかし弟は兄になることはできても、兄は遂に父になることはできないのだった。戦後とは、実は、誰もが先行する兄と、多少の違いこそあれ、やがて同じあぶ轍を踏む時代の別名である。だから、唐は東北の風媒花辿り着く上野を耕して紅テント・ビニール・ハウスで東北の促成栽培をせねばならなかったし、佐藤は「わたしのビートルズ」とビートルズを私のものにしてみせねばならなかった、勿論、兄への牽制と弟殺しの目論みにはおさおさ怠りなく。だが、兄弟、陸上のクラウチング・スタートで始められるレースはやがて曲り角で外に大きくふくれて一瞬並んでみせるのだが、戦後が単調な直線の時代なのか危機(カーブ)の時代なのか、実はあなた方にもよく判らないうちに戦後は暮れたのではないですか?
関係の暮方
「本について話をするなんてことはいつだって空しさそのもの」である。まして戯曲についてはなおさらである。それは寺山修司が好んで引用する「ルイ・ボナパルトのブリューメル・十八日」の中のあの一節「歴史上の大事件や大人物というものがいつでも二度あらわれるものだ。ただし一度は悲劇として、二度目は茶番としてである」をそのまま実践するようなものだ。それに僕は人物解説や作品解説が可・不可なくできるほど程よく彼と関係を保ちえた訳ではない。寺山修司その人を語るにしろ、その作品を語るにしろ、僕はあまりに近くに居すぎた者である。人物について語ることは、あたかも別れた女の話をするようなもので、良く言っても悪く言っても、言ったその矢先に自分の言葉を疑ってみなければならないだろう。作品解説はと言えば、僕にとって彼の作品の「実現」であり、そのことは同時に批評でもあったのである。だから僕はここでそう思っていながら今まで誰ひとりとして、只の一度も記述したことのない本音をノーマン・ポドレーツの文章から借りて、そう思っていながら今まで只の一度も口にしなかった者の名において、まさにその者たちに送ろうとプロローグの花むけをし、初めの項で、寺山の言語世界の拡大と現実世界の拡大の照応、函関数について話し、次の項で彼の「存在の季語」、「現実らしさの季語」の記述法とでもいうべきものとその社会的・政治的運動体といったものについて話したかったのである。それはゲルハルト・リッターが「現代歴史叙述の問題性について」の中でL・B・ネーミアの言葉を引いて言っている、「描写される対象の本質を成すものを、発見し、かつ明示し、淘汰し、かつ強調しなければならないが、しかし、眼にふれる一切のものを、見さかいなく模写する必要はない。歴史に於いては、大きな輪郭と重要な細目とが問題なのである。歴史が避けなければならないのは、重要でない些細なことを物語るという、死の泥沼である」という歴史叙述の手法の政治化といったものである。そして第三の項では「戦後史としての寺山修司」とでもいうべきものを語りたかったのである。長年生活を共にした者同士が別れた後で互いのことに言い及ぶのは、こんなものなのである。
最後に、多分この巻をもって完結すると想われるこの戯曲集に寺山の次の一文を添えることは、どういう形であれ、寺山修司と天井桟敷に拘ってきた者たちにとって、異存はあるまい。
“劇は「出会い」である。「出会い」を必然としてとらえようとするのが政治学であるとするならば、われわれはその対極において、「出会い」を偶然的なるものと認識する。
人と人との出会い、人と事物との出会い、人と言語との出会い、魂のコロンブスとすでに亡び去ったアメリカ大陸との出会い、まぼろし探偵と紙芝居屋の飴との出会い、浪漫的亡命者と夜泣きうどんとの出会い、かぎりなく交錯する出会いの偶然性を、想像力によって組織すべく、われわれは旅立つものだ。
たかが演劇で、と言い捨てるものはたかが演劇で一国家を幻想し、それを棄却する力をもたねばならない。天井桟敷は虚構と現実、現実と虚構との地平にふみこむことによって「たかが演劇」ということばの意味を検証し、次なる劇場を日常性の荒野の中に構想する。銭湯を劇場に、寝室を劇場に、大学を、酒場を、心臓を、言語を、内宇宙をすべて在るものを、劇場として成るものへ。”(「天井桟敷はいま何をしようとしているのか」・新聞「天井桟敷」13号)
註:本稿は未刊『寺山修司の戯曲5』の解説として書かれた
(『現代詩手帖・第17巻第3号 特集:六〇年代詩人のありか』思潮社、1974年3月号)
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